徒手空拳

――― 武道の本質 ―――    2023年7月

武道には『反則』という概念は無い。
最初から妙なことを?と思う人は多いだろう。では、どういうことなのか?
武道といっても色々あるが、特に空手は自分を守るための技術、思想だということで、何の攻撃もしてこない人を倒す、という発想、考えはない。
これはもともと日本人の持つ独特な感性考え方かも知れないが、基本的に争いは好まない民族性なのだ。
それは日本という国の特殊性だが、島国ということに尽きるだろう。侵略されたことが無いのだ。
だからこそ日本は世界最古の国であり、千六白年以上の伝統を持つ皇室が現代でも続いているのだ。
このことは、ある程度正しい歴史を学んだ人ならだれでも理解できると思う。
が、異を唱える國もわずかではあるが、あることも事実だ。
それは残された資料や文献よりも、感情を優先させる偏向した考えの国、ということになる。
ともかく、日本の長い歴史の中でつちかわれた民族性により、争いを好まぬ感性が育まれたということだろう。
したがって、日本の武道が自身を守るという発想で成立し発達したものだ、ということになるのだ。
特に空手の源流である沖縄においても、本質は自己を守る保身の技術として発達するのである。
とすれば、「反則」という考え方はあるはずもなく、瞬時に相手を倒すために全力を尽すことは当然である。
では、「反則」という概念はどこから?となるが、それは、競技となってからだ、ということになる。
空手のほんの一部分を使って競われる、いわゆる「試合」というものが、盛んになると、「安全」という考え方も同時に生まれてくる。この意識が大きくなれば、反則という本来無かった物が大きくなり、巾をきかせるようになる。当然、、本来の空手が持っている大切な本質が失われる、ということになる。
競技空手の発達は嬉しくもあるものの、本当の空手は?という何とも複雑な氣持になるのは、私だけだろうか?
少なくとも、空手道場で空手を教えますと、謳っている以上、本来の空手をちゃんと教えるべきで、競技する場合はこうですと教える。少なくとも指導者は、本来の空手を指導できる資質が必要だ。
我々空手家は、少なくとも、そうした知識と技術を磨き続け向上していくべきと考える。
古の空手について学び、それを現代社会の様々な局面で活かせるよう、創意工夫する。
「温故知新」ということを、腹の底に置き精進していかなくてはならない。
「反則」に守られた競技をすべてだ、と勘違いしていたとしたら、名称のみ空手道だと言いながら、、己を守り、仲間、家族を守るべき技術や武道精神が、何も無かったという結末が見えてくると思う。
混沌とした世界、日本社会の中で、本当の意味で「強く」「やさしく」「堂々と」生き、作り上げる己の人生を、ぜひとも空手を通じて、求めていただきたい。
それが日本の誇る本当の武道の本質なのだから。
風 雅遊