徒手空拳

――― かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ極真魂 ―――

何に限らず本当にこのままでいいのか?

と思う日々が多くなったような気がする。

たとえば世界や日本社会の事。自分の所属している組織のこと。身のまわりのこと。

グローバルな視点から、ミクロの視点まで、物事をじっくり考えて、自分の立っている座標がどこなのか、どこへ行くのかが、見えていない。中途半端な状態のまま、色々なことが進んでいく。何につけても。特に原点を忘れていることが多い。

新極真が紆余曲折を得て、組織的方向を、フルコンタクト空手他流派に大同団結を呼びかけて新たな組織を作った。オリンピックを視野に入れてのことである。

「空手をオリンピックへ」耳に心地よく、いかにも素晴らしいことのように聞こえるが、本当に極真空手をオリンピックに入れていいのか?どこまで本気で考えて討論し、考え抜いた末に出した結論なのか、はなはだ疑問である。(多数決できまったことなんだけれども…その多数決って奴がくせ者である)

まず、極真空手はスポーツとは一線を画す武道であること。戦えば相手を倒す。根っ子に相手を倒すという本質を持つ武道だということ。その為に稽古体系が存在しているということ。だから、身に寸鉄を帯びず攻防する。緊張感がその瞬間の技と精神を向上させる。したがって身を守る術は、自己の技の修練にのみ在る。防具をつけるのは最低限にとどめるのは当たり前だ。危険な技は、あって当然なのである。なにせ相手を倒すのだから・・・。

「なんてことを言うのか」と、思われる方々には、「では、カラテって何ですか?」と問いたい。ほとんどの人は、武道だと答えるだろう。武道そのものだもの。『死』を前提に『生』を創る修業だもの。

当然、現代社会において戦いは禁止されている訳だから、ルールを作って競技として存在させている。当たり前のこととして、武道性をそこなわない程度にして。その武道とスポーツのギリギリの所に極真空手の本質はある。

オリンピックという耳に心地いい言葉が『?』マークになると思うが。いかが?

我々は競技をするためにこの極真空手を修業している訳ではない。あくまで武を追及する一手段として競技を行っているに過ぎない。その、当たり前のことが、いつしか忘れられ本末転倒になってしまっている。安全性を考えるに、防具、ルールを本来の本質を失うものにしてはならない。安全は、稽古の中で創るものだ。気の遠くなるような日々時をかけて、汗と血を流しながら修得するものだ。

オリンピックは、その武を表現できる場になるのか?再度考えてみる必要がある。その上に立って、結論を出すべきである。

大山倍達師に連なる者として、その精神を継承する者として嚙締めるべきである。

果して、我々はその責任を全うしているのか?

「極真の道を全うする事」

風雅 遊