徒手空拳

――― 失われた恥の文化 ―――

日本は恥の文化を持つ国であった。あったと過去形で書いたのは、現代では失われつつあるからである。

古の日本では、行動の規範が「天に恥ずべきか、否か」と、生き方の基本として、常に人の行為を律していた。

が、今や国、世の中のリーダーと呼ばれている人を先頭に、そのほとんどの人々が、この「恥ずべき」という概念を喪失し、自己保身、自分さえよければいいといった体たらくである。

なぜそんな国になったのだろうか? 実に残念な事である。「恥の感性」を持った人も、圧倒的な無節操、厚顔無恥な人々の前に少数となり、根源的な日本の美徳を失って行ったに違いない。なぜなら「恥の感性」を持っている人は、ほとんどの人が声が小さいのである。反対に「恥の感性」を持ったことも無い人は声が大きく「えっ?」と思えることでも平氣で出来るのである。

自分の周囲を見回しても、えてして人の上に立つ人にこの傾向が顕著である。

「謙虚」「謙譲の美徳」等の最も大切とされる文化は、失われて久しいのである。

ネット文化が、人間の蓋をされていたその醜悪な姿を、あますことなく白日の下にさらし、少なくともなんとか押さえていた人間の本質を多くの人々に知らしめてしまった。

表の顔、裏の顔、以外に横顔、頭のテッペンから足の指の先まで、余すことなく引っ張り出し、必要もない情報を正義と称してさらす。

人間の本質は、古から悪の心と善の心と共にある。それを包むのが徳である。それを正義面してすべて暴き立てるネット社会では、こんなことも、あんなことも、恥知らずですよ!とばかり。言っている本人も含め、互いに恥を知る人の行動ではないのである。

福祉の名のもとに、バラまかれる国からの手当、タコ足財政を目玉に、国家の健全な財政を考えもしない国民と為政者。「恥の文化」が失われた結果のことである。

「自己完結」こそが人生を支える大きな柱と考える。武道を歩む者として、結果はすべて自分から発していることと認識、自覚することである。その自覚があればこそ、「恥の文化」が理解でき、前に進む勇氣が生まれるのだ。

今の社会、声の大きな人の本質を見誤ってはならない。

風 雅遊