徒手空拳

――― 空手とは?生きるとは? ―――

連日の35℃以上の酷暑で、生物としての自己の破壊を予感するほどだった。

つまり人間も地球上に存在する生命体の一つで、環境の変化によって大きく左右される存在であるということ。運命共同体であるということ。を、感じた。

「生きる」ということの意味を考えさせられた夏だった。

その酷暑の中でも、自己研鑚する人々がいる。

道場から発せられる気合。全身水を浴びたような汗。限界を超えた世界がそこにはある。

で、「何のために?」そう問うてみる。答えらしきものは多々返ってくるが、本質的なものではない。使い古された言葉や、誰もが理解している言葉が軽々と出てくる。

根源から突き上げてくる人間の本質らしき答えではない。

人間は、なぜこうにも簡単になったのだろうか?

内面の検証をしなくなったのだろうか?

「戦う」ことの本当の意味、答えを、自分の生き様になし得ないのだろうか?

その上っ面だけで、すべてを語れるのだろうか?

あまりに安すぎる。

自分の流した汗を語る時も、気の遠くなるような繰り返す技の一つ一つを、一本の思いの中に集約していくことも、安価な物語にしてはいけない。発する言葉は重い。簡単でも深みと重さがいる。その中での稽古である。

大会の乱立の中で失われた武道精神。

空手とは何なのか、修業とは?

安易な競技志向が、武道の本質を変え、別のものにしていった。

道場は、自己を磨く場所である。再度原点に還って、武を問い、道を問い、己の生き方を問う。このことの大切さを知る者が本物の武道家だと思う。

強さを何のために求めるのか?

その先に何を見い出していくのか?

何の哲学もない思いや行動は、魂を揺さぶらない。魂を震わすほどの感動を、自分の人生に見い出していくことが、「生きる」ということ。

単に生物的に生きるのではなく、人間として尊厳のある生き様とはそういうものだと思う。

どこかで、そのことを感じたり思っているから、こんな酷暑の中でも汗を流し、気合を入れ、体を鍛えるのだと思う。

さあ問う、「空手とは?生きるとは?」

風雅 遊